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【同調とは、忘れること】南米パラグアイで体験した“ラベルの外”の世界


こんにちは、世界で学ぶ催眠術師かずきです。

今日は、僕が南米パラグアイで体験した「同調とは忘れること」という不思議な感覚について、少し深く掘り下げてお話ししたいと思います。



■ パラグアイでの生活と“ある発見”

今から2年前、僕はパラグアイという国に住んでいました。ブラジルとの国境に近く、大麻の流通が非常に盛んな地域です。現地では大麻は驚くほど安く、10gあたり3000円ほどで手に入ることもありました。

そんな環境の中、僕は日常的に大麻を吸って瞑想や催眠の実験をしていました。すると、普段当たり前に感じていた「概念」や「ラベル」がふっと外れ、世界の見え方が少しずつ変わっていくような体験をするようになったのです。

ある日、観葉植物のエネルギーを感じる練習をしていた時、ふとこんな感覚が降りてきました。

「同調って、“忘れる”ことなんだな」

この時、頭ではなく感覚として「同調=忘却」という発見があったのです。



■ 再び蘇った感覚 ― 催眠マッサージの中で

数年経ったある日、僕は催眠トレーニングの一環として、マッサージをしていました。指圧をしながら無我夢中で相手に集中していると、ふと、あのパラグアイでの感覚が蘇ってきました。

不思議なことに、相手と自分の区別が曖昧になり、まるで「相手の中に自分が溶けていく」ような感覚があったのです。その状態になると、マッサージの圧がより深く伝わり、痛みも柔らぎ、まさに“響き合う”ような状態になっていました。

「自分と相手の境界を忘れる」ことで、真に同調することができる。

それは、言葉やラベル、役割や名前、そういった“区別”が消えていく瞬間でした。



■ 哲学的視点:名前が、世界を切り分ける

この体験を、哲学的に解釈するとどうなるのでしょうか?

構造主義では「言語=世界を構造化する道具」とされており、名前を与えることで意味を生み出すと同時に、それ以外の可能性を排除するとも考えられています。

「魚」と名づけた瞬間、それは「魚でない何か」ではなくなる。

つまり、名づけることは世界を切断する行為であり、名前は私たちの「見る」という行為そのものにフィルターをかけてしまっているのです。



■ 東洋思想と現象学:境界を溶かすとは?

現象学の創始者・フッサールはこう述べました。


「意識とは、常に何かを意識することである」

つまり「見る」とは、常に「主体(自分)」と「客体(対象)」に世界を分ける行為でもあります。ですが、僕が感じたのは、まさにその境界が消え去る瞬間。

そして、東洋思想や禅の中でも「名づけること」は本来の姿を見失わせるものとされています。


「名づけた瞬間、道(タオ)は道でなくなる」──



僕が体験した「同調とは忘れること」という感覚は、「私」と「あなた」という境界線を超えて、分離以前の一体性(非二元性)を取り戻す体験だったのかもしれません。



■ 見るとは、忘れること

ある言葉にこんなものがあります。


「この世の全ての名前が失われるとき、真の姿が見えるかもしれない」

これはカントの言う「ヌーメノン(物自体)」に近い感覚かもしれません。僕たちは普段、対象を「名前・意味・概念」を通してしか見ていないけれど、その全てを忘れたとき

初めて、世界が“そのまま”見える。



■ まとめ:同調とは、世界との共振

大麻による体験も、マッサージ中の感覚も、すべてに共通していたのは、

「名前を忘れることによって、世界とひとつになる」

という感覚でした。


言葉、名前、意味…



それらが僕たちに秩序と認識を与えてくれる一方で、同時に世界を切り分けている。でも、ほんの一瞬でも、それらを手放したとき。

僕たちはもう一度、「ただ在る」という共振の中に戻ることができるのかもしれません。



ご感想やあなた自身の“ラベルの外”の体験があれば、ぜひコメントでシェアしてくださいね。

催眠術師かずきでした!



 
 
 

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